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25.07.2013, Thu

☆ Children ☆  6

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  ☆ Children ☆ 最初の記事はこちらから
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あなたにとって「自由」とは、いったいなんでしょうか。

好きなことだけをして暮らしていけることでしょうか。

お金の心配をしなくてもいい生活のことでしょうか。



私に究極に自由であると思える瞬間がきたとして、

それはすべてから解放されたときなのだと思ってきました。

経済的、精神的、物理的、人の生活のうえで考えられるかぎりのすべてのこと、

そういうことの一切から解放され、生きていかれることが本当の「自由」だと思っていました。

なんとなくそれは人としてすべてを超越したような、ずば抜けたもののように思っていて

なによりもそれを成し遂げるためには

何にも屈っしない強さをもたなければならないとずっとずっと思ってきました。


今ではその「自由」に対するDefinitionはずいぶんと変わりました。

今現在私が「自由」ということを考えるとき、

それはやはり「解放」であることに変わりはないのですが、

今までのように自分がなにかから抜け出しそれから「解放される」というのではなくて

自分がなにかを手放しそれを「解放していく」のだ、ということ。

同じようも思えるけれど、違いがわかるでしょうか。


たとえば経済的なことからら解放を考えるとき

それはたくさんお金を稼いで金銭的に余裕をもち、ラットレースから抜け出し解放されるということではなくて

お金にとらわれる自分の観念自体を自分から手放し、解放する。

そういうことなのです。


なにかから「解放される」ことを望むとき、そこには「がむしゃら」や「ただひたすら」など、

たくさんの物質的な努力を要する場合が多いと思うのですが、

なにかを「解放する」とき、そこにあるのは肩の力のぬけたナチュラルさやシンプルさだと思います。

決して悟りの境地に至るとかいろんな鍛錬・試練を乗り越えた上でなされるような大げさなことじゃなくて

誰でもができること。

ものすごく単純な部分に根本ってあるのです。



20年ぐらい前に私が「母が私に期待する生き方をしていく。 そうすれば母も私も幸せになれる」といったとき、

「その考え方はちがう」といった友達がいましたが、

彼女からはもうひとつ、大切なことを教わっていました。


それは「他人を変えることはできない」ということ。


これは彼女が私に対して忠告してくれたことではなく、彼女がそのときに抱えていた問題を知り合いの牧師さんに相談していたときに、

その牧師さんが彼女に話してくれたことなんですが、

その話を聞いて以来これはずっとずっと私の心に残り、

なにかあるたびに思い出しています。


人に変ってほしいとどれだけ願っても働きかけても、

その人本人が変ろうとしない限りその願いは絶対に叶わない。

でも自分を変えることはできる。

なにかあるときに「あの人がこうしてくれれば問題は解決するのに」と思うならまず

自分がどう変ったら問題を解決できるのかを考えなさい。



やはり私のような人間には精神的な部分で完全に解放されるということなしに

真の自由はありえない、とずっと思ってきました。

私のもつ劣等感や怒りなど、もつだけでいやになるネガティブな感情の克服のために

その元をたどっていくと行き着くのは今でも心の中にある母の言葉や行動。

私の劣等感や怒りを引き出すそれらをなんとか消し去る方法を、長い間探してきたように思います。


長い間、なぜ母はこういう人だったのだろう?と疑問に思ってきました。

自分が子を生み母親となってからはもっとその疑問は大きくなりました。

母と時間を過ごすとき、私がネガティブな感情に支配されないようになるには

母がその言動を改め、変っていくことを、望んでいたのだと思います。

あなたの言動は間違っている。

子供に対するその考えは、間違っている。

過去のことはもういいとしよう。

これからはもうああいう言動は一切やめてもらいたい。

母にわかってもらうためにいろいろな方法を試みました。

何度も話そうとしたし、理詰めにもしたし、

若いころには話しているうちに気持ちが炸裂して、それこそ物を投げつけたりしたこともありました。

でも結果なにもわかってもらえないことに怒り、地団駄を踏むということを繰り返し、

母と距離を置き考えないようにすることだけが唯一の問題解決となった。

そんな感じでした。


でも今、こうして気持ちを吐き出していて思うのです。

私の中にいる、母の言動に傷つき泣いてその場に取り残されたたくさんの子供たちを解放することも必要だけど、

私の中の「母」という人を解放することこそ、私が一番しなくてはならないことではないか。


母という人をみとめ、彼女の自由な意思を尊重する。

彼女の考え方、ものの言い方、行動の仕方は彼女の人生の中で作り上げられてきたものであって、

それは私にはなんの関係もないこと。

母が「私の母」として生きるのではなく、母自身として自由に生きていく権利。

彼女の言動が「私の母」として私の人生に影響を及ぼしたことは確かだけれど

私は私自身の自由も尊重し、

母に対していいと思うことも悪いと思うこともしてきた。

もしそれが母がきにいらず、私を誤解することがあっても、それはそれでいいではないか。

確かに、母と子という関係の間の溝は、とても悲しい。

だからこそなんとかしたいと執着もしてしまう。

でも、それが私の母と私という人間二人の間にある、関係なのだから。

それは私のせいで作り上げられたのでもなく、

母のせいで作り上げられたものでもない。

誰のせいでももない、ただ単なるひとつの事実にすぎないのですから。


母親の愛情というものにしがみついてきた自分にさよならして

もうその気持ちから、母という人を解放してあげよう。

母を自由にしてあげて、楽にしてあげよう。

そうしたら

その痞えがとれて新しいものが堰を切ったように流れ始める。



自由とは

自分を愛し、同じように人を愛すること。


ただ、それだけのものすごく単純なこと。

特別なことじゃない、

誰の中にも必ずあるもの。


自らがその自由を大切にし生きることによって

おのずと周りの風景が自由に変っていくものなのです。





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THEME : 家族 / GENRE : 結婚・家庭生活
DATE : 2013/07/25 (木) 12:59:02
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17.07.2013, Wed

☆ Children ☆ 5

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  ☆ Children ☆ 最初の記事はこちらから
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私たちの一人一人は

ありのままの形ですでに愛される価値のある

なににもとってかえることのできない

大切な大切な存在です。

それは宇宙全体のなによりも美しく

人のエゴによって作り出された善い悪いで動されることのない

強い存在です。

そんなふうに自分を思っていくれる人などどこにもいないと思うかもしれません。

でもたしかに、それはそこにあります。

今、そしていつも、あなたとともに。

それはあなた自身です。

あなたという人間があなた自身の一番の理解者であり

あなたが愛情を求めるべき存在なのです。



ひとついえることは、

私は母の言動に傷つき、それが元となって苦しんできたけれど

母もまた同じことをその母親からされてきたのだということ。

母にとっての母、私の祖母が母が幼いころ母の容姿や行動について、ずいぶんと好き勝手なことをいってきたということを、

母自身からわりと多い回数できいてきたことでした。

私はこれまで何度か、その祖母の言動について母はいやではなかったのかということを訊ねたことがありましたが、

母の答えはいつも「うーん・・・ なんでこんな風にいわれなきゃならないのかなぁ、とはおもってたけどねぇ・・・」というもので

本当の気持ちはわからず終いでした。

必ず最後には「どうだったか忘れた」といっていたので、きっと母自身の中で考えたくないことなのだと思います。

しかしながらそれと同時に、祖母にとって3人の子供のうちのたった一人の女の子ということもあって、

いろいろな意味で甘やかされ、

ずっと同居していた祖母にとっての嫁の愚痴を話せるただ一人の娘として確固たる地位が祖母の中にあることを母は知っていて、

母がその母と持っていた関係は私が母と持っていた関係とはまた違うものだったと思います。

時々思うのは、ある意味その関係は「共依存」と呼ばれるものではなかったのかな、ということで

祖母は母にひどいことを言いながら結局は母を頼り、

そして母も祖母に助けられることや頼られることで自分を確認していたところがあったのではないかと思うのです。

私の祖母は私が小学校高学年になったころ他界したので、子供のころに私がみた二人の関係を思い出しながら想像するだけでしかありませんけれど。


私からみた母は「自分」いうものが全くなく、人の意見に左右される、芯のグラグラとした人でした。

今までなぜ自分がその母親からされていやだったことを自分の子供にするのか、それが疑問でならなかったのですが、

おそらくそれは母の中での「母像」というものがきっとそういうもので、それ以外の母像というものを知らなかったのだろうと思います。

どうしてよいかわからず迷ったとき、自分の母親はどうしてきたかを考え、母親がしてきたことをまねて自分の子供にする。

自分の意見のない母には、それしか方法がなかったのだと思います。

人は親となったときその人の親が反面教師となるかそうでないかの二つに一つであるときいたことがありますが、

母の場合は祖母が反面教師にはならず、私の場合は母が反面教師となった。

そう考えればつじつまも合うし、納得もいく。

そう単純に割り切れれば私のなかでこの問題は終わっていただろうともいます。


だけどどうしてもわからないのは、

母がお金や労力という子供にする援助について、とてもとてもさもしい考えを持っているということです。

母は私が生まれるまで祖母の建てた家に私の父や幼い姉、兄と住んでいたこと

私の姉、兄のオムツは変えたことや洗ったことがほとんどなかったこと(祖母とその妹が常に世話を手伝っていた)

私の実家である家の頭金は私の祖母が出したこと

祖母がなくなるときに家賃収入のはいる貸し店舗を母にのこしていったこと

私が知っている限りではこれぐらいしかありませんけれど、

ひどい言動は自分が母親にされたことを丸々ひきついだにもかかわらず

祖母がこのように母に娘のためにと惜しげもなくつかった時間や労力、お金というものを、母は全くうけつがなかったということ。

これが私が理解できないところなのです。

これはやり方を受け継ぐ受け継がないの問題ではない。

一人の親として、なぜだからわからないのです。


それは母に援助をしてほしい、ということでは決してありません。

援助してほしいとたのんだことさえありません。

姉も私も、子供が生まれたときに実家に帰ったこともなければ母がきて手伝ってくれたということもありません。

でもそれならそれでいいのです。

うちはそういう家庭なのだと思っていけばいい。

だけど心から嫌悪することは

母はことあるごとに私だちに「親の当てにするな」といい続ける、そのことです。

母にそういわせてている、子供に対するその気持ちです。

私たちがわがままで仕事をやめて実家にひきこもり、親のすねをかじっているとかそういう状況で言われるならわかります。

でもたとえば結婚し、自分の家庭をもってその将来の話をしているとき。

娘きなこの話をしているとき。

そういうときに急にもちだしてくるのです。

「うちはなんにもないからね!なんにものこらないからね!」と履き捨てるように。

なぜ? なぜそれが今ここで?

あるときは私が再婚してオーストラリアにきたばかりのとき、

今の夫がとても日本に興味を持っているのでいつか日本にいって1~2年でもいいから住んでみたいねといっているんだよ、と電話で話したときでした。

間髪いれずに言われました。

「うちはやだからねっ。」

うちに住むとか、当てにするのはやめてほしい。

そういう意味です。

誰もそんなこと、思ってもいないのに。

この5月に実家に帰ったときも言われました。

姉に会う前日の夜、何かの話をしていたときに急に怒ったように「うちはお母さんが死んでもなにも残さないからね。あてにしないでよね」、

加えて「お姉ちゃんにもそういう風にいっといてよね」と。


受け取ることはできても与えることができない人。

それだけでなく、持っているものを奪われるかもしれないという猜疑心で一杯の人。


私はばかにするな、と思いました。

なにをもってして、私たち子供が母のお金や助けをあてにしていると感じるのか。

私たちは私たちで一生懸命、自分の生活を生きているのに。

第一にどうしてこんな気持ちを、自分の子供にもてるのか。

こんなにも信用されず絶えず骨の髄まですわれるのではないかというような疑いの目で見られているなんて悲しすぎる。

だけど子供だからといってこんなふうに言われる筋合いはどこにもない。

親子の間だからとはいえ、失礼すぎる。

心からそう思いました。


今までも何度も、こういうことを話そうと試みてきたのですが、それはできない相談というものでした。

こちらがどれだけ言葉を選んでも、母は自分が責められていると感じ、すぐに目に涙をため、どうせ自分が悪いのだといじけ、大きなため息をついて席を立つ。

全く話にならないのでした。


でも私は今回、どうしても母に伝えたかった。

遠く離れて暮らしていて、母も年老いていき、実際あと何度会えるかわからない。

だったらこれから母と時間を過ごしていくとき、私の中でなんのわだかまりもなく、母に私が今こうしてあることに感謝できるようになっていたい。

楽しく一緒にすごすときを送っていきたい。

だから母といった箱根旅行の帰り、ロマンスカーの中で話しを切り出しました。

ここでは母が逃げられないだろうとおもったからです。

私は言葉を選び、ゆっくりとやさしく、時々笑いを交えながら話をすすめていきました。


でも残念ながら、私の真意は伝わらなかったと思います。


私がオーストラリアに戻る日、門をでて歩き始めた私の背中に母はやはり履き捨てるようにいいました。


これが今生の別れになるかもしれないしね。


それは彼女が私に一生会いたくない、といっているのではなく、

彼女が私の気持ちを先回りして読んで自分が傷つくまえに防御するために発せられる、いつもの嫌味のような意味合いなのです。


母は私がロマンスカーの中で話しを切り出したその理由を

私が母のことを嫌っているが故の「文句」ととったのでしょう。

そういうふうに物事を受け取る人だとは、わかっていましたけど。

人は関係を改善するために、お互いの気持ちを話し理解しあう。

そういうことは母の中にはないのです。



もうこれ以上母との間には私になすすべはなく

自分の中で解決していくよりほかないのだ。

私はそうおもって実家を後にしたのでした。


日本を出て以来20年。

海外に移した自分の場所に帰ることがこんなにもうれしかったことは

一度もありませんでした。

それは母への嫌悪からではなく

私が持っている私自身の今の生活がなにより幸せであるのだということを

そしてその生活の中で

私を理解し受け入れてくれる人をみつけたのだということを

改めて知ることができたからです。






ではまた次回に☆





CATEGORY :
THEME : 家族 / GENRE : 結婚・家庭生活
DATE : 2013/07/17 (水) 10:45:48
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15.07.2013, Mon

☆ Children ☆ 4

    20130527_124935.jpg

  ☆ Children ☆ 最初の記事はこちらから
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人は「経験する」というだけの行為では、

経験した事を最大限にいかし、学び、前に進んでいくということはできません。

「休む」という行為をもって初めて、

それまで経験してきたことを細胞のひとつひとつに浸透させ、新しい自分の力としていくことができるのです。

「経験する」と「休む」は対でありながら、常にセットとしてそこに存在していきます。

だから私たちは頻繁に休みを取り入れて、抱える問題から離れる必要があります。

それは問題を客観視する、というふうにもいえるし、故意に忘れようとする行為、という言い方をする人もいるかもしれません。

どちらでも本来はぜんぜん関係ないのです。

私たちは歩き続けるなんてできないし、そんなことは望まれてはいません。

休むことなしに、

その問題の中にある本当の大切な意味を見ることは絶対にできないのです。



私は長い間、母という呪縛のようなものに苦しんできました。

それは大人になればなるほどはっきりとした形として、私の前に現れました。

24歳のときに日本を出てはハワイへいきましたが、それは母から離れるということが直接的な問題ではありませんでした。

むしろあの時は、そのことについては一切かんがえていなかった、というのが正しいかと思います。

あの時の、ハワイへ行くというタイミングは実際は母の薦めがきっかけであったし

幼いころから国外へでることを決めていた私にとっては母が考えていた一時的な移住とは裏腹に

もう日本に戻って住むことはないという永遠的なものであったけれど、

そこには私が変えていかれるだろう未来だけが存在していて、

それから起こりうるだろう苦悩のすべてを糧とするのだという気持ちだけでいっぱいで

ただひたすらに導かれた方向しか見ていませんでした。


ハワイに行ってからしばらく、私と母の関係が少しかわっていきました。


私の母という人は、とにかく自分自身を子供たちの人生に乗せ、その人生を一緒に生きるということをしたがる人。

悪い言い方をすれば、寄生。

だから子供たちの人生は母にとってエキサイティングな、そしてなにより人に自慢できる立派なものでなければなりませんでした。

私がハワイにいることによって頻繁に、長期にわたってハワイを訪れる、そうできることが母の大きな自慢になっていたのだと思います。

母は常にたのしそうでした。

あのころは手紙のやり取りをしていましたけれど、ハワイがあるということが母の毎日の励みとなり、それだけで幸せに暮らしていけるのだと書いていました。

一人暮らしをしていた私にとっても母の滞在はうれしく、学生だった最初の2年間は母との関係はそれまでにないほど良好でした。

母が幸せそうに、楽しそうにしている姿をみることは、それにかかわった私自身が認められてたようでとてもうれしかったのです。


しかしながら、やはり母の呪縛というものはいつも私について回りました。

あるとき、レスポートサックというお店のセールにいったときに、無地のバックパックがとても安くなっているのを見つけました。

それはベージュで、シンプルで、とても気に入りました。

どんな色の洋服にもあうし、いつでも使えるし、と思ってそのバックパックを購入しようとしたとき。

例のごとく母の声がきこえてきました。

  なんでそんな地味できたない色をえらんだの?  
  そんな色、貧乏くさくてほんといや。
  あたしなら絶対にかわない。
  ショッキングピンクとか、きれいで鮮やかな色を選ぶね。

私は文字通り意を決して自分の希望を通しそのバックパックを買いましたが

その後もそれを使うたびに、本当にこの色でよかったのだろうか? やっぱり私センスないんじゃないかな?と考え続けました。


そんなあるとき、私は友人にいったことがあります。

私は母が私にしてほしいと思う人生を生きていく。

そうすれは母はいつも幸せでいてくれるし、それは私を幸せにするから。


卒業のとき、その友人は私に言いました。

あのときのくんちゃんのあの考えは間違っているといいたかった。

くんちゃんはくんちゃんの人生をいきるべきで、母親の人生をいきるべきじゃない。


母の望むようなことをして生きていくということは、実は私にとってある意味楽な生き方だったといえます。

否定されることもないし、母の顔色をうかがって生きていく必要もない。

なによりも、母に認められたい、ほめられたいという私の中の小さな取り残された子供たちがが満たされ、癒される。

それが一番の解決策だと、思っていたのです。


しかし良好と思われた関係もつかの間。

私がオアフ島からカウアイ島へ移動するというあたりからその関係はかげり始め、

前の夫と出会ってから決定的に崩れました。

それらは母のプラン外のことで、おそらく受け入れたくなかったのだと思います。


それから長い長い間、私は自分自身の独立した生活の中で起こる問題と母という人との問題の間で、

苦しみ続けることになるのでした。


私には今でもどうしても理解できない。

なぜ母は、子供が一生懸命にその人生を生きようともがいているときに

火に油を注ぐようなことをしなければならなかったのだろう。

そうすることで

子供の中の自分の立場や存在というものを、確認したかったのだろうか。

自分を一番に考えて。

そういいたかったのだろうか。


でもそれは逆効果であるということを、母は気づいていない。


きなこがやっとお座りができるようになったころ、母は私を訪ねてカウアイ島へやってきました。

あんなに私の前の夫を嫌っていたのに、なんだかんだいって私たちの住むアパートに滞在していた母。

私はすでに仕事に戻っていたので私がいないときは前の夫が母にご飯をつくり、

私が休みのときや仕事の前などは、母を外に連れて行っていました。

前の夫と私はそのころ交代できなこをみていたのですが、母がきなこを見てくれるときはつかの間の自由が訪れるわけですので、

そのことでは私たち二人とも母にとても感謝していました。

私の中で、母がそのときに私たちを訪れるということは

一般的に娘が出産のため産前産後に実家に帰るみたいに母が私を手伝ってくれるのだ、という感覚をもっていました。

母はもちろんきなこを散歩につれていってくれたり見ていてくれたりはしていました。

しかしながら、私が喜んで母がそうしてくれていることで助かっている旨を伝えると急に不機嫌になりこういいました。

 今後もこういうことを期待されるなら
 お金を支払ってもらわないと割が合わないね

ある日みんなで外で食事をして、

そのレストランの入り口にあった小さいクレイジーシャツのコーナーのあったとあるTシャツを母がみて「あれ、かわいいよね、買おうかな」といいました。

それを前の夫に伝えると「きなこを見てくれているからお礼の意味もこめてお母さんにプレゼントしよう」と、Tシャツを買いに行ってくれました。

その日の夜、きっと喜んでくれるだろうと思いながら前の夫と私の感謝のきもちだとTシャツを母に渡すと、母はこういいました。

  Tシャツこれ1枚だけ? 2枚もらってもいいぐらいだよね。
  だいたいこんなものじゃ、ごまかされないけどね。
  まぁいいや、今回はもらっておくけどね。


母にとってそのときの滞在は、母が望んでいたものではなかったのでしょう。

でもどうして、一目で見て大変だとわかる娘の生活を助けることが、親としての自分の幸せにならなかったのでしょう。

どうして休む暇もなく家事や育児や仕事をしていて疲れている娘に追い討ちをかけるように、

たまにしかこないし親なのだからと、自分に時間を費やすよう希望できるのでしょう。

もしこれが私の思い過ごしなら、誤解なら、私の甘えからくるものなら

私は人生のほとんどを無駄に費やしてきたのかもしれません。


でもそれはそれで、なにか意味があったのでしょう。



とにかくそんな母をみて私は改めて自分の甘さを思い知り、

もう母の幸せを考えて生きていくことはできないと悟りました。


私は完全に母から独立しなければいけない。

もう絶対に母に私の人生を振り回されるようなことを私が許してはいけない。


それは遅くきた私の親離れだったのかもしれませんが

私は硬く高い壁を、私と母の間につくったのでした。


そして娘きなこにはこんな思いは決してさせないと、

固く固く心に誓ったのです。






ではまた次回に☆





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THEME : 家族 / GENRE : 結婚・家庭生活
DATE : 2013/07/15 (月) 08:24:52
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12.07.2013, Fri

☆ Children ☆ 3

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☆ Children ☆    はこちらから
☆ Children ☆ 2  はこちらから
  


今でも私が引きずっている母から言われたこと、されたことを書いてみようと試みたのですが、それは大変に難しい作業でした。

言葉に改めて書くととほんとに当たり前のような些細な毎日の出来事のようになってしまう。

うまく伝わらない気がして、書いては消し、書いては消しの繰り返し。

文章を読み返せば、なんだ、こんなことを思い続けてきたのか。

そう思うとそんなことをこだわってきた自分にが恥ずかしく、がっかりしてしまうような。

本当は些細な毎日の出来事だったのかもしれません。

ただ、私の心の中で何かの理由で長く、そして深く引きずっているだけのことかもしれません。

でもそれがそこにある限り、私は抱え続けるのです。


今回は私からみた母という人のことを、書いてみたいと思います。

これについてもやっぱり難しく、書いてしまえば普通のような、はたまたありえないような平ったいものになってしまいますが、

それはそれでよしとしてみたいと思います。

もしかしたらそれをそのように受け止めることで、私の中の問題は解決するのかもしれません。


母を「こういう人」と一言でいうのは難しいですが、あえて言うのなら母は

いつまでもお姫様でいたい人。

決して「お姫様」なのではなくて、「そうありたい」人。 「そう扱われたい」人。

そう勘違いしている人。

年のはなれた兄と弟の真ん中で女の子一人という環境で育った母は、まるで一人っ子のように、

平たく言ってしまえばいろんな意味でたくさんの注意(Attention)を浴びてきたようでした。

母がどのように育ってきたかは母からきいた本当にごく少量の情報と、姉からの話だけの判断なので私には本当はどうだったのかはわかりません。

先にもかいたように母は「お姫様でいたい人」のため、そういう願望も話の中にふくまれていたのかもしれない部分は多くあると思います。


とにかく母は自分が中心であり、かわいがられる、ということに、とても執着をもっていたように思います。

自分が特別であること。 特別でありたいこと。 特別でなければならいこと。

これは彼女にとってとても重要な部分であるといえると思います。

そして今書いていてふと思ったのですが、

「特別でなければならない」という言い方がとてもここではふさわしい言い方のように思います。

そこに母の「強い我」というか「意地」というか、そういうものを表現できるからです。


子供のようにはしゃいだりすることがトレードマークで、「子供みたいね」という言葉を一番のほめ言葉として受け取る人。

それがいやみが含まれたニュアンスだった場合、「その人は子供のように無邪気でいられる自分をねたんでいるのだ」と心から思える人。

でも実際は「子供みたい」なのではなく本当に「子供」であり、 

守るより守られたい、ほめるよりほめられたい、支えるより支えられたい。

万事において、そういう人でした。

相手が自分の生んだ子供であっても。


結局は、自分から自分の幸せを見つけることのできない人なのだと思います。

結婚すれば夫から、子供がうまれればその子供から、

自分は守られ支えられ幸せにしてもらうのだ、というのが母の軸なのだと思います。

軸というはっきりしたものでは、ないのかもしれません。

ある意味「まわりから幸せにしてもらう」ということ以外、彼女は方法を知らないのだと思います。


あるとき、母からこんなことを聞いたことがあります。

「いつかお父さんに『分ていうものを知れよ』といわれたことがあるんだ」と。

父がなくなってずいぶんしてからのことです。

昔話の中での、あれもこれもと希望を出す母に、父が言った言葉でした。

私はこれをきいたとき

この父の一言にすべてが集約されていると思いました。

そして私の母に対してもってきた感情はまちがってないと思いました。



シロツメクサで作った冠をかむったお姫様は

その冠が金や宝石でできているという夢の中で生きていました。

そしてその子供たちにあなたたちはそんなお姫様の子供たちなのよと言い聞かせ

子供たちの履くどろどろのくつを磨くこともなく

子供たちの着るぼろぼろの服を繕うこともなく

子供たちのまるで鳥の巣のように絡まった髪の毛を梳かすこともなく

子供たちの泥だらけの顔をふくこともなく

遠くに見えるお城の王子様へ嫁ぐよう言い聞かせてきたのです。


お城での振舞いや言葉遣いなども全く教わらぬまま、

そのままの格好で舞踏会にでかけた子供たちは

当然のごとく美しく着飾った人達から好奇の目にさらされ

さらには誰にも相手にもされずにすごすごと帰ってこなければなりませんでした。

どれだけ子供たちが王子様とは生きる世界が違うのだ、

子供たちには子供たちにあった生活があるのだと訴えても、

シロツメクサの冠のお姫様は一切聞く耳をもちませんでした。

どれだけ子供たちの考えが間違っているか。

どれだけ子供たちが意気地(いくじ)がないか。

どれだけ子供たちを情けなくおもっているか。

王子様と結婚できるのに、自信をもたないのは馬鹿だ。

そういって

目と口をきつく閉じ、ひじをはり、鼻を横に向け

子供たちに後ろ足で砂をかけたのでした。


シロツメクサの冠のお姫様は

本当はいつも夢と現実の狭間に立って幸せではありませんでした。

いつも本当の宝石のついた冠をかむりたい。 

そう思っていましたが、なすすべはありませんでした。

それはシロツメクサの冠のお姫様自体が

お城での生活にふさわしい振る舞いをできるような努力を、ひとつもしたことがなかったからです。

その努力の方法を、全く知らなかったのです。

どうしたらよいか、考えることもありませんでした。

なので子供たちをお城へお嫁にいかせることで

一緒についていく自分が本当の冠を手に入れらることを心から願っていたのです。

でもすべては「そうできる」「そうなる」というただ単なる根拠のない思い込みと、勘違いでした。


子供たちは馬車を引く白い馬。

きらきらと光る馬車と立派な白い馬は

シロツメクサの冠のお姫様をお城へとはこんでくれる。

・・・はず、だった。


馬車がかぼちゃにかわるたび、白い馬が茶色いねずみにかわるたび

シロツメクサの冠のお姫様は失望し

かぼちゃや茶色いねずみに背をむけて

退屈そうな、そして不機嫌そうな顔で

小さな家の窓から遠くにかすんでみえるお城を眺めるのでした。




これが、私の中にある、

シロツメクサの冠をかむったお姫様(母)の物語です。





ではまた次回に☆




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THEME : 家族 / GENRE : 結婚・家庭生活
DATE : 2013/07/12 (金) 07:53:25
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28.06.2013, Fri

☆ Children ☆ 2

  20130527_124859.jpg

これは前回からの続きです

前記事 ☆ Children ☆ はこちらから


「母」という言葉に、皆さんはどういう印象をもっているでしょうか。

ただただ単純に「母」という響きを耳にするとき。

それはどんな意味をもつでしょうか。


私の中で「母」という言葉は

とても大きく暖かいもの。 

いつでもどんなときもそこにある。

強くて、いつも自分のことは後回しで、疲れないのだろうかと思うぐらいくるくると働き者で、明るくて。

少々のことをいっても動じない、あっけらかんとした空気。

少し垢抜けなくて、でもなりふりよりも

常に家族の幸せをなによりも願っている。

なにがあっても、必ず見守ってくれる。

誰に嫌われても、絶対に見方でいてくれる。

そんな意味をもちます。


過去にこのブログでも私は私の母にふれたりしてきましたけれど

それは私が「母」とここに書くとき、

先に書いたような意味を、その「母」という言葉の上に載せてきたように思います。


私の母が。

実家の母が。

客観的にその文面をみるとき、まるでその母が私のおもうところの母であると錯覚するぐらいに。



実際のところ、私は私の母のことをどれだけ知っているかに自信がもてません。

それはこれまでの間、きちんと話しをしてきたこともなかったし、

いつもいつも遠慮ばかりして一定の距離がお互いの中にあったからだと思います。

家族といえどもある一定の距離があることは大切かとは思いますが、

しかしながら私たちの間の距離はまるで磁石の同じ極のようで

まったく寄ることはなかったというのが、私の記憶です。


なので私がこの後このテーマで母のことを書くとき、

それはあくまで私の中に残っている記憶を元に

私が私の中で長い間をかけて作り上げてきた「母」という人物をにすぎないのかもしれないということを

あらかじめここに記しておく必要があると思います。


私の母は、冒頭に書いたような私がイメージする「母」像というものとは、全くかけ離れていました。

正反対だった、とも言えると思います。

私がもつ「母」というイメージを勝手に押し付け、それと違うから母は悪い母なのだということはフェアではありませんが、

でもそういう目的でここにこれを書いているのではないのです。

私の中で「それとは正反対」の私の母として居続けるなら、私は「その」母と向き合わなければならない。

そういうことなのです。


いろいろなことを考えるとき、いつも思うのは

根本では母が私を憎んでいた、嫌っていた、というのとはちがってたのではないかということです。

ただひたすらに、母自身が自分をもてあましていた、

一言でいえばさびしすぎる自分自身の心を自分の夫や子供がしてくれる自分へのことで埋めようとしていた、

その結果であると思います。

自分自身は努力することなく、自分の幸せや自信を得るために他人に過大な期待をかけ、それがなしえなかったときに大きく失望する。

それはおそらく母が母自身に課した期待で母自身への失望なのだと思いますが、

大きな間違いはそれを母が全く気がついていないということでした。

あるいは本当は気がついていたというべきかもしれないけれど(母の言動からしてそう感じることもないことはなかった)、

それに母が自ら直面しようとすることはなく、常に蓋をし、見ないようにし、逃げ回ってきた。

結局は自分を守るために人のせいにしてきた。

そこがすべてであると思うのです。


私はそんな母のもとで

母が私に課してきた到底なしえるはずのない母の期待や希望にうんざりし、嫌悪し、

同時に無能であることへの罪悪感を感じ、

そして私がそれをできないときの母の私に対する悔しさやもどかしさや失望を常に体で感じてきたわけですが

こういうことの繰り返しの結果、私はどうなっていったかというと。

どうして本当の私をわかってもらえないのか、という悔しさや悲しさという思いなんてとうに通り越して

本当の私、というものをどんどん失っていったのです。

私が知っている私という人間と、母の思う私という人間のはざまに立ち

結局どれが本当の自分なのか、わからなくなってしまったのでした。


そしてその後ずっと、

母の望む私と私自身が望む私との間で

苦しんでいくことになったのです。

なにをすることが私自身を幸せにすることなのか。

それを長い間探してこなければなりませんでした。


私自身もまた、自分を守るためにたくさんの鎧をみにつけてきましたが、

それは重くなるだけで、私を守ってくれるものでは決してありませんでした。


母のようには絶対になるまい。

たった一人でも自分の子供を守れるような強い人間になるのだ。

生きても死んでも子供の傍らに立ち続け、見守り信じていく人間になるのだ。

しっかりとした自分の軸をもち、自分で自分を幸せにできる人間になるのだ。

そしてなにからも独立して、自由になるのだ。

私はそれだけを胸にここまで生きてきました。

それが私が生きる意味のすべてでした。

今まで歩んできた道は本当に本当に長く、暗く、辛い道だったけれど

そこに私が自ら選んで身を投じてきました。

ずっとずっと孤独に、誰にも心をゆるさずに。

人に甘えていては、絶対にそこへは到達できないと思っていたから。

でも、孤独でもつらくてもなんでもいいと思った。

そんなこと、ほんとにどうでもよかった。

それで私が思うような私になれるなら。

私自身の言動にもみえた、あれだけ嫌悪していた母のそれと同じものを、完全に取り除くことができるのなら。



でももう、許さなければならないときがきたのです。

母ではなく、私を。

母の期待にこたえられず、罪悪感を感じてきた私を。

母に受け入れてもらいたかったばかりに、どんどん自分を否定されることに敏感になった私を。

どうして本当の私をみてくれないの、と怒り叫んできた私を。

私のなかにいる、母とこうして生きてきた日々のなかでうまれた

悲しみや苦しみや寂しさを抱えたまま置き去りにされてきた

たくさんの子供たちのその一人一人を

開放するときがやってきたのです。

私はもう、この子たちを背負っていきていかなくていい。



私は私の母を母として丸ごと受け止めることができるように

私はただたんに母を私の母として無条件で愛することができるように

私がそう、母にしてほしかったように。


そしてそれは結果として

私が私というものを

丸ごと受け止め無条件で愛することができるようになるという

私が超えなければいけない本当の壁なのです。





ではまた次回に☆




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くんちゃん

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2008年9月15年間住んだハワイからアデレードに引越してきました。 家族は夫Hunnyと娘きなこ(ハワイ在住)、ウサギのクロ(ハワイ在住)、そして犬のさくら、ゆずです。  















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