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2009.08/14 [Fri]
☆ ほわほわでね・・・ ☆

今週ももう金曜日にですね☆ この前週末がおわったと思ったのに、早いものです。
きなこが帰ったら仕事をするとかいいながら、ぜんぜん職探しもせず、相変わらず毎日ぶらぶらしております。 娘きなこからは「ママはどうせ暇なんだから」と、彼女のゲームキャラのレベル上げを頼まれまして、朝から3時間、例の「夏休み恒例 経験値2倍イベント」でレベルを3回あげましたです・・・
きなちゃんねー、ここまでしてくれるお母さんなんて、普通いないよ!?
でも彼女にとっては当たり前なのであります・・・・ ってやる私も私ですけどね

しかしながら「おおおおおっ!! 3回レベルアップしたんだ! すごいじゃん!」とほめてくれる夫がいるということで救われてはおりますが、それに負けじと週末に早起きしてしまう夫も、どうなんだかねぇ・・・
ま、似たもの夫婦、親子(ステップ親子も含む)でございます。
このゲーム、私達は3年程前から遊んでいるのですが、とっても楽しいんですけれど、人にあまりいうことはありません。 とくに人様にお話するようなことでないといえばないですし、大人になってからゲームやってるよ、っていう人、あまり見たことがないというのもありますしね(苦笑)
でも一度、何気にその話をしたときに(そのゲームの内容ではなくて、たまたま何かの話に『ゲームで』みたいにでただけなんですけど)「オタクだったのね」といわれたことがあります。
私、自分がオタクだったなんて、そのときまでおもったこともありませんでしたよ(笑)
でも「ゲーム=オタク」なら、私は立派なオタクですね~。 それなら胸をはって、オタクのはしくれでいようと思います(笑)
ていうか、オタクがどうのこうのっていうよりも、その人のそういう発想に、ものすごく驚きだったのですよ。

その「ゲームする人=オタクな人」と言ってのけてしまう人のように(たいした意味はなかったと思いますけれど)、わりと「これはこれ」って決め付ける人って、多くないですか? (あ、怒ってませんからね。)
2にするには1+1なんだ、という感じの人。 1+2-1だって2になるし3-1だって2になるし、2+3-4+1とかでも2になるじゃない?と思うのですけど(えっと・・・2になってます?)
ときどき「これはこう」というイメージを強く持つ方は、それ以外の表現をもたないか(口頭にしても文章にしても)、あるいは想像力をあまり働かせることがないのでは、と思ったりしちゃいます。
だって世の中にはいろんな人がいて、いろんなケースがあるんだもん。
そんな簡単に「これ!」っていえるもんじゃ、ないと思うんですけれどね・・・
なんかよく「ゲームは子供に悪い影響を及ぼす」とかいうことで、親が子供にゲームをさせない、というのがありますよね。
私はまず、この「ゲームが悪い影響を及ぼす=だからすべてのゲームがだめ」と単純に結びつけることに、ハテナ?と感じてしまいます。
ゲームによってはバイオレンスなものがあり、やっていくうちにそれが当たり前の感覚となって、現実とゲームの世界がごっちゃになってしまう。 それが理由かと思うのですが、でもそれが原因なら、家の夫はもうすでに何千人もの人を殺していると思いますよ(笑) 彼はファイティング・シューティング関係大好きですから。 おまけに人を切りきざんじゃうような映画も大好きです(・・・・。) 子供のころからですよ。
こういう場合、ゲームはただたんなる「きっかけ」にすぎないと思います。 もともとその人にはそういう要素があったんだというだけの話かと。
まぁでも、うちの娘をみていても、気持ち悪い場面などはトラウマになったりすることもあるみたいなので、そういう意味では理解できます。
が、どんなゲームもだめ、と簡単に結論をだしてしまうのは、ちょっと早すぎませんか?と思うのです。 もっとちゃんと自分の目でもみてみて(私のようにそれで遊べとは言いませんけど)、ちゃんと根拠を突き詰めなければ、なーんにも解決しないし、説得力もないと思うのです。
あとはインターネットでの交流は「危険」だからだめ、とかね。
んー、こんな便利な世の中になり、いろいろな国の人とリアルタイムで話せるようになった今、どうしてそれが悪いことでしょうか~と思ったりします。 私が中学生とかのころは「ペンパル」とかいうのがあって(あれ、だったっけ?)外国の人と手紙交換をするというのがありましたよ。 それと同じではないのかしら?と思うのですけど・・・
確かに、myspaceでも知り合った人に殺された事件とか、いろいろあります。 だけど逆に私の友人はmyspaceで知り合った人と結婚してとっても今は幸せですし、「それ=すなわち悪いこと」ではないのです。
あくまでもこれは個人的な意見ですが、言ってしまえばひとつのことに簡単にレッテルを貼ってしまう方は、得てしてあまりその事情をご存知でない方が多いように思います。
よくわからないから心配・不安になり、人の情報ばかり集めては安易な結論に達する。
自分が体験して出した答えじゃないから、とにかく踊らされてしまう。
先にも言いましたがそれぞれにはいろんなケースがあるんですよね。 その背景の違いを自分で見極めることが必要ですが、それは短時間ではできません。
なにかを「これ」と位置づける前に、ちゃんといろいなケースやその背景を見る必要があると私は思います。 自分が実際経験したことでも、1回や2回ぐらいで「これ=これだ」というような結論をだしては、いけないとおもうのです。
話が極端になるかもしれませんが、差別を語るときなども一緒かと、思います。
これもねぇ・・・ ちょっとした自分の体験や人から聞いたことをもとに「これはこう!」って決め付けている人、多いと思います。
その団体に独特なものがあったとしても、個人個人と接すれば意外とちがってたね、ということはよくあることですよね。 また、そこにいたるまでの背景など、やっぱり決め付けてしまう人はどこかそのことに対してあまり事情をしらなかったりすることが多いと思います。
差別をしちゃっているであろうその人自身も悲しいですが、「こういうことがあるの!」と軽々しく話題に出す人も、また悲しい。
中には真剣にいろいろなことを考えている方もいます。 だけどちゃんとした教育の場以外で差別をよく話題にする方の多くは、一見物事を冷静に見つめているように見受けられますけれど、比較的その人自身が差別をする目をもっているケースが多いと思います。
というのは、その人自身が、実は心のなかでものすごく差別ということに意識をしているからです。
私は長い間海外にいますが、差別というものにはあったことがありません。 いやな思いをしたことは数知れずありますよ。 そういわれてあてはめてみるとあれが差別っていうものだったのかな、と感じられるものもわんさとあります。 だけどそれは改めて考えるからそう思うのであって、実際いやなことがあった時はそうは考えません。
私の中には「差別」という感覚が、ないからです。 人はみな、個人個人。 だから私がいやだなと思えることをする人については「その人の問題である」というふうにしか思わないのです。
そしてまた、それを話題にしている人をみて「この人はいろいろなことをよく考えるひとだわ~私も見習わなきゃ~」と単純に思ってしまわれる方。
「差別を話題にする」ということ「それ自体」が知性ではないということを、わからなければいけません。良識ある人は、そんな深い問題を、あまり理解しない状態で軽々しく口にだしません。
「そういう事実があって、それに目を向ける」ということは大切なことだと思います。 しかしながらそれは「野次馬根性がゆえに話題にする」ということはわけがまったくちがうのですよ。
なんだかながながになっちゃいましたが、「これはこれ」という結論を出す前に、きちんといろいろなケースをみて自分なりにいろいろ経験したり知識を増やしたりする、ということはとっても大切なことと思います。
自由な発想は大変によいことです。 だけど大人にあったらそこにきちんと責任をもたなければいけないと思います。
ネガティブな印象を人に与えるような物事の決め付けをしたり、ましてや個人や団体の特定を悪い方向へ示唆するような言動は、ご自分で思う以上の影響力があるということを認識しなければなりません。
もし表現力がないと自分で思われるのあれば、或いは時間やスペースがなく正しく表現できないのであれば、表現するのをやめるという選択も必要だと思うのです。
世の中には子供のように無垢だったり、大人であってもまだまだこれから外の世界をしるだろう人たちも多いので、無責任な発言や行動はそういった人たちに間違ったインフォメーションを与えてしまうのですよ。
世の中にはいろいろなことがあります。
そして時代はかわっていくからこそ、それにきちんとついていかれるよう柔軟な目と心をもつことが大切になると思います。
少しのことにとらわれて結論をださないで、もっと大きな意味を考える。 それにはもっと経験して、いろいろなものをみて、ゆるがない自分をもつことが必要なのだと感じます。
人を躍らせてしまう人も無責任ですが、踊らされてしまう人も無責任です。
そうならないためにも、心豊かな、柔軟な人間でありたいといつも思います。
年とともに、むずかしくなりますけれどね・・・・(涙)
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